2018年2月4日日曜日

縄文の神に会う

その日、わたしが出会ったのは、日本文化の最古層に祀られた縄文の神だった。


風薫る五月。鮮やかに緑したたる欅らしき巨樹といくつかの木立の塊は、田園の一角に鎮まる鎮守の森の風景だった。歩を進めて近づくとやはり、赤い鳥居とその向こうには白木の社殿が見えたのだった。

掲げられた扁額を見上げ、最初わたしはこれを「やしろぐうじ」と読んだ。最古層の神との出会いである。正しくは「しゃぐうじ」さん。




松本市大村の社宮司大明神。境内には公民館が並び建ち、古くから集落の鎮守の神さまとわかる。拝殿は木の香が漂い流れそうな白木であるが、本殿は古い造りなのだろう、覆屋が掛けられていた。境内には道祖神、三猿の石造物、常夜灯などが並んでいた。

説明板には『社宮司の本社は諏訪明神上社の神主守矢家の祝殿である』とある。よく読めば、諏訪大社ではなく諏訪明神となっている。お諏訪さまを明神さまとお呼びすることは、諏訪では一般的である。友人の諏訪人もそうである。この時は気付かなかったが、わたしはいくつもの「謎」という名の地雷を踏んでしまったようだ。上の説明文の「上社」「守矢家」「祝殿」あたりがそれである。このことはまた書く機会を得たい。




社宮司大明神の前には、田植え前の水田が広がっていた。燕舞う空の下に、三峰山と鉢伏山が写っている。三峰のすぐ裏が霧ヶ峰。そして八ヶ岳へと続く山並みがある。

後に知ったことだが、八ヶ岳の山麓から諏訪にかけて、社宮司さんは集落ごとにお祀りされているらしい。諏訪の地では「みしゃぐちさん」と呼んで親しまれ、また崇敬されているという。そしてお諏訪さまの本質的な、というか「もともとの神さま」はすなわち「みしゃぐちさん」であり、その起こりは縄文時代から続く信仰と祭祀であるという。ご神体の多くは数千年前、縄文時代中期に作られた「石棒」で、男性を象った石器だという。わたしは何やらアニミズム的なその要素を知って、社宮司大明神さんに親しみを覚えながらも、謎めいた思いを払拭できずにいた。






時は過ぎ季節は移ろい変わる。

旧blogに書き散らしたことなので採録は避けるが、昨夏のある日、わたしは塩尻の平出考古博物館を訪れ、縄文土器の装飾と土偶たちに対面する機会があった。当時の人々が粘土に彫り込んだ表情に、ある特徴的な「顔」があって、わたしはその表情から発せられたメッセージのようなものを読み取ろうとしていた。展示を眺めていても答えは得られず、帰宅してからはっと気付かされたのだった。

メッセージは「生きろ」というものだった。

生と生命に向けられた「希求」だった。我が子に向けて無事の誕生と成長を祈り願う、いのちのメッセージだった。その瞬間、わたしにとって縄文人という存在は、「展示物」ではなくて「ルーツ」として昇華したのだった。そう、土偶に顔が刻まれてから連綿と200世代ぐらいを重ねて、いまのわたしが居る。

存在し、生きていることの奇跡を感じた瞬間だった。





ぼんやりと暮らして年を越し、少し前に幻視を得た。前項で書いたように、塩の道を辿って黒曜石や塩、翡翠を携えた縄文の旅人がこのあたりを往来していた様子を思い浮かべたのである。きっといまでも、あの土偶の顔が、わたしに何かを語りかけ続けているのだろう。




真冬の一日、松本市中山にある松本市立考古博物館を訪れた。

街角で眺めたある縄文土器の写真に、魅せられてしまったのだ。そしてどうしても、本物を眺めたくなった。



 『縄文の美・その形と心』展。左側の土器がお目当てである。平成30年3月11日まで。


 うむ。これである。
 『有孔鍔付土器』である。樽型の土器の口のところに孔が開けられている。この孔が問題で、一説には皮を張って太鼓として鳴らした、あるいは酒を醸すにあたって蓋を留め、発酵ガスを逃がした、などと議論されているようだ。


いずれにせよ、音を出したり酔わせたり、呪術か祭祀に関わる遺物だと考えられている。わたしが魅せられたのは、土器の肩に並んだ装飾、文様である。 瓜を半分に切ったような造形である。わたしはこれを、貝と見た。少年時代の一時期、長崎千々石湾という温かい海の畔で過ごしたことがある。砂浜に降りて汀を探すと、タカラガイと呼ばれる仲間の貝殻が落ちていた。とてもきれいで、愛らしくて、拾っては大切にしていた。その貝殻の姿にそっくりなのである。

おそらくこのタカラガイそっくりのモチーフは、女性的なかたちから多産と豊穣のシンボルと見て間違いあるまい。海を知らなかった中央高地の縄文人たちがタカラガイを知っていたのだろうか。想像は飛躍する。前項で書いたように、遠い海辺の土地と交易・交流があって、タカラガイが原始通貨として使われていたのかもしれない。



この左右対称の渦巻きのような文様にも、何か象徴的な意味合いが示されているのだろう。こうした「記号」が読み解かれて行くかもしれないと想像すると、なにやら胸が熱くなる。






ほかにもたくさんの土器に出会えた。これは明らかに蛇であろう。
受付の事務所で確認すると、写真撮影は許可されているという。その男、過去に別なところで「博物館という場所にはシャッター音が似合わない」ということを書いているが、貸し切りなのであっさり宗旨替えである。これは絶好の機会と、思う存分アイフォーンのカメラに収めた。



うむむ、美しい。たくさんの顔が付けられているように見える。



これも蛇のようだ。



 虚ろに穿たれたその孔....。



すばらしい展示である。二時間以上を過ごしてしまった。

帰りがけにカフェに寄り、タブレットで『有孔鍔付土器』を調べてみた。画像検索をかけると、たくさんの似たような土器たちが表示された。いろいろな種類があるのだな、いつか本物を見に行きたい...。そう思いながらも、「わたしの有孔鍔付土器」がなかなか出てこない。もっと有名な土器がたくさんあるからだ。そこでわたしは、撮影した写真に写っているキャプションで調べることにした。さきに掲げた写真を拡大すると『大村塚田遺跡』と判別できる。ここで出土したのだ。今度は遺跡名で検索をかけるとなんと発掘調査の報告書が読めるというではないか。

大村塚田遺跡。DLした報告書には、46軒の縄文時代中期の住居跡が発見された、とある。そのうち3軒には祭壇があって、マツリが行われていた。土偶が33点! ミニチュア土器や土鈴まで出ている。なんとも呪術色の濃いムラである。さらに、石棒と考えられるモノまで出土(37ページ)、もう心臓がばくばくしてきた。
 
ここだ。ここで「わたしの有孔鍔付土器」が発見されたのだ。帰り道に寄ってみることにした。ルートを考えながら、一種の不安感のような予感のような、ある思いが浮かんでいた。遺跡の地図を確認しよう。

報告書のスクリーンショットである。

がつんとやられた。地図の左上に、社宮司大明神とある。 去年の春、わたしがふらりと訪ねて参拝した、鎮守の森である。予感は確信に変わった。

背景に溶け込んで判りにくいが、電柱の影の先に社叢が見えている。つまり、このとき、わたしは縄文のムラの上に立っていたのだ。この目の前の、雪に覆われた田んぼの下から「わたしの有孔鍔付土器」が出たのだ。 



やはり間違いなかった。社宮司さんである。この神さまは諏訪地方では「みしゃぐちさん」と呼ばれ、縄文時代から続く信仰、諏訪信仰そのものの原点とされている。縄文時代の石棒を神体として祀り、蛇の姿をしているともされている。


途方も無い遠回りをして、この地点に戻ってきてしまったようだ。

去年に出会った社宮司さんが鎮まる場所は、かつて縄文のムラだった。そのムラではマツリが行われ、土偶や石棒がイノリに使用された。その場所に祀られている社宮司さんはすなわち、縄文の頃の神さまがずっとここにとどまっておられるということだ。

5000年もの永きにわたって鎮まっておられる社宮司の神さまに、わたしはあらためて参拝した。遠い祖先たちが「生きろ」と込めたメッセージを、悠久の時を隔ててもう一度受け止めることができた。


いまを生きて在る自分自身に起きている「現在進行形の奇跡」の重みを、もう一度考えることにしよう。















2 件のコメント:

  1. またまたアラスカからです。
    暇を見つけては、この2年間に読みそこねた師匠の新しいブログの記事を読んでいるところですが、この記事は大変面白かったのでコメントを残します。

    民俗学の推理探求のような論文記事、松本の身近な田園風景に時とゆうもう一つの次元を加えた描写、遥かな縄文の昔の人の暮らしと思いを想像しなが読ませていただきました。
    僕も最近、昔の人の生活や思いに想像を馳せるの好きになりました。年寄り特有の症状でしょう。


    2000年以上も昔の信州の土地に暮らした人たち、一体どんな気持ちで生きていたのでしようか?今のように、翌日の天気も予測できない。下手をすると季節のめぐりさえ、私たちが考えるように当たり前に繰り返し行われる自然現象としての抽象的観念なしで直接的具体的に受け止めて生きていたのでしょうか?

    彼らの目には、槍や穂高の峰々はどんなふうにうつったのでしょうか?

    縄文時代ということはほとんど狩猟と採集の生活、海から遠く離れたこの地域、何を食べていたのでしょうか?彼らはすでに、師匠のようにコシアブラや行者ニンニクの禁断の味をしっていたのか?

    そんな暮らしでは、すべてがある意味オドロキだったのでは。。。
    そう考えると、ナルホド生きるということは何かこう今よりもっと意識的な行為だったんでしょうね。

    考古学兼民俗学的考察を交えた郷土散歩の記事、これからも楽しみにしています。

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  2. 『生きるとは意識的な行為』
    アラスカの兄貴、鋭い視点にいつも驚かされます。


    すみません遅くなりまして。
    日本では年末が近づきますと、先生が走り回ったり猫の手を借りたりで。それで、資本家の奴らがわたしのような労働者をこき使う習慣が残されていまして、ええ、もう、夜も働け、週末も働け、と酷いもんです。ドイツにはカールさんと仰る有名な方が居られて、こうした相談を聞いてくださるそうなんですが、あまり懇意にすると『シュギシャ』と呼ばれて警吏に連れて行かれるとか....

    意識的に生きる、良いお言葉を教えていただきました。次に使わせていただきます。

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